那覇 栄町市場。忘れられない夜

那覇でも昭和の(もしくは戦後!の)空気をもっとも色濃く残す街区『栄町市場』
行ったことがない人はぜひ行ってみて。びっくりするかも知れない怪しさだけど、温かい街でもあるから。
昨晩、何度か入ったことがある小さな飲み屋にふらっと入ってみると、いつもより空いていた。

戦後のバラックそのままのような店のカウンターで一人、20代前半のオシャレなお兄ちゃんが飲んでる。
ちょっと変わった感じの子で、マスターとのやりとりから、島の人なんだとは分かるけど、なんだかちょっと緊張気味?で、やたら飲んでて、ビールの空瓶がすごい並んでる。

たいして気にもせず、僕は僕で泡盛をちびちびやっていると、どんどんお客さんが入って来て、あっという間にいつもの賑やかな店になった。
えらくやかましいんだけど、それがこの店の味なので、まったりと過ごしてた。

しばらくして70代で小柄な感じのおじさんがにこやかに入ってきた。
如何にも常連風のおじさんは、手慣れた感じで、勝手に店のショーケースを開けて!ビンビールを取り出して、空いている席に座ろうとする。

すると、最初のお兄ちゃんが「おじさん一緒に飲みませんか?」と声をかけた。知り合いって感じじゃない。だけどきっと、お兄ちゃんは誰かと話したかったんだと思う。
おじいのビールをうやうやしく受け取り、いかにも大げさにビールを注いであげて。そのあとも「おじさん!」「おじさん!」って一生懸命話しかけてる。

おじいも楽しくなって来たのか「じゃ歌おうか?」って、そこが沖縄の夜、店の奥から三線が出てきて、おじいに手渡される。
『唐船ドーイ(ちょっと激しめの曲でみんなで踊ったりする)』を歌ってほしいとお兄ちゃんはせがんだけど、おじいがゆっくり歌い出したのは、みんなが知ってる『安里屋ユンタ』。
これはアタシが唯一弾ける島唄でもあるので、あたしも静かに口ずさむ。

♬マタハリヌチンダラカヌシャマヨー
(また会いましょう、愛しき人よ)

お兄ちゃんは歌詞もうろ覚えで、少し調子も外れていたけど、なんだか、おじいちゃんと孫みたいな二人が、一緒に歌っているのは、すごくいい感じで、聴いて、歌って、酔いが進む。

そのあともおじいはお決まりのナンバーを何曲か弾いて、お兄ちゃんは、うろ覚えの歌詞を大きな声で歌って。。。そして、そんなこと全然関係ないってくらい店は騒がしくて。。。

「今日はいい夜だな」って思ってボーッとしてたら、お兄ちゃんがおじいに話し始めた。
「久しぶりなんです。学校出て5年、内地で働いて、でも辞めて帰ってきたんです。まだ何するかも決めてなくて。。。」
頑張ってきたプライドと、いくつかの不安とを見え隠れさせながらも、訥々と話し続けるお兄ちゃん。
頷きながらただニコニコと聴くおじい。

ひとしきり聴ききってから、おじいが口を開いた。
「仕事探して仕事しなさい。打ち込めることをやるんだよ。それが人のためになるんだからね」
はっきりとした口調でそう言ってから、また満面の笑顔に戻って
「じゃあ、きみのために一曲歌おうね」
と、また三線をとって、おじいが歌い始めたのが、あの歌。

♬僕が生まれたこの島の空を
僕はどれくらい知ってるんだろう
輝く星も流れる雲も
名前を聞かれてもわからない
でも誰より誰よりも知っている
悲しい時も嬉しい時も
何度も見上げていたこの空を
教科書に書いてある事だけじゃわからない
大切なものがきっとここにあるはずさ
それが島人(しまんちゅ)ぬ宝
(作詞・作曲BEGIN)

決して上手いわけじゃないんだよ。
でもね。もう。泣いたよ。
涙が止まらなかったよ。
カッコ良すぎるよ。おじい。
お兄ちゃんの心にも、しっかり刻まれたと思う。
今は分かんないことがあっても、大切なものは「きっとここにある」んだよね。

そしてそのあと曲は、最初のリクエスト曲だった唐船ドーイに変わり、みんなで踊って。。。
おじいは最後までカッコよかった。

こういうのが、コーチング以前のコーチングであり、サイコセラピー以前のサイコセラピーなのだなぁ、と。
100年前はコーチングもサイコセラピーもなかった。でもあたしたちはずっと助け合いながら生きてきたし、それを支える知恵があったんだよね。。。とクラスでよく話すけど、それをリアルに強く感じた夜。

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